プロフィール

小学生のときに覚えたハーモニカを、難病治療のために入院した、中国の山奥の村人たちとの、素朴で温かい出会いを機に、10 年前から本格的に演奏活動と指導を開始しました。 毎月第3日曜日に福岡市中央区の天神中央公園(南西角)でストリートライブ(14時~)を行う他、各地での演奏活動や、福岡市やその近郊11か所で指導を行っています。 Skypeによるwebレッスンも開始しています。 レパートリーはクラシックからポピュラー、演歌など多数です。 これまでに、韓国・中国・ドイツ・ポーランド・アルゼンチン等でのライブツアーも毎年実施。 自ら作曲やアレンジも手がけます。

ストーリー
history of Yoshio

2005年1月、福岡市中央区の天神中央公園でストリートライブを開始しました。 2014年から、10年目を迎えます。 私の演奏活動や指導は、ここから始まりました。

小学生の時に

少年のころ
5歳の時に、父親が出張の際に買ってきた小さな“お土産”のハーモニカで、知っている歌を、音を探しながら(探り吹き)練習したのがハーモニカとの最初の出会いです。
小学校 4年生の時に、音楽の授業でハーモニカが数時間取り入れられていました。
これがハーモニカとの本格的な出会いです。
現在保育園などで使われている「教育用クロマチック」と呼ばれている器種ではなく、現在私が使っているものと同じ「複音ハーモニカ」でした。
当時の小学校では、映画館に授業の一環として映画を観に行っていましたが、4年生の時に観た「ビルマの竪琴」が決定的な私のハーモニカ人生を形づくるきっかけになりました。
木の上で
映画の中で、日本人も現地の人々も大勢亡くなり、また傷つき、やがて、日本人は国に引き上げるというのです。
その時、一人の兵士が「自分は慰霊のためにジャングルに残る」と言って、「埴生の宿」を演奏するのです。
私は愕然として、「埴生の宿を演奏するほかない…」と、思い至り、たった一人、学校の授業とは関係なくハーモニカの練習を始めました。
当時は小さな町だった千葉市で、どうやって手に入れたのかわかりませんが、CとC♯の二本吹きをしていましたし、自分で工夫してベース奏法もやっていました。
私が住んでいた家の門のそばには高い檜があり、てっぺんに登れば、当時は晴れていれば富士山が見えたものです。
その檜に登って、もの悲しい曲を即興で演奏していた小学生は、今から考えると、かなり“おませ”な少年だったでしょう。

中学・高校生生の時に

ピアノ
当時はやっていたコンチネンタルタンゴのメロディラインを口笛に移し、それをハーモニカで表現するという方法で、タンゴのアレンジを始めていました。 しかし、最も熱中していたのはピアノ演奏でした。
自宅にあったピアノを何時間も弾き続け、独学で次々に曲をマスターしていきました。この頃、両親や祖父母は“私の将来を心配して、”自宅でピアノを弾くことを禁じられてしまいました。
やむを得ず私は、少しでも時間があれば、学校の音楽室や講堂などに駆け込んで、ピアノを演奏していました。特に、低音部から高音部までの広い音域を使う激しい即興曲を演奏して、たまたまそれを聴いた人々がびっくりしたりしたものです。
ギター
自由に自宅でピアノ演奏ができない私に、友人たちがギターをプレゼントしてくれてからは、ギターを独学で練習し、かなりの難曲も演奏できるようになっていました。
高校を卒業してから、京都でゲバントハウスのベートーベンを聴いたときに、音楽こそ私の生きる道だと感じ、「音楽で飯を食う」と言い出し、家中が大騒ぎになりました。
60歳からハーモニカで飯を食うようになった私は、子供の頃に夢描いていた「人生」を実現できたのだと思います。

大人になってからは

成人してからは、ハーモニカは時々思い出したように持ち出して演奏するというレベルの世界になっていました。
特に、過労で入院することがたびたびあった私は、入院時には必ずハーモニカを持参して、当時はまだ自由に登ることができた病院の屋上などで、度々演奏していました。
私にとってハーモニカは、特別な、自分自身を癒やす道具だったのだと思います。

難病指定になって

病院でハーモニカを吹く
20年ほど前に過労から倒れて難病指定になったときから、私の人生は大きく変わることになりました。
希少な経験であるはずの「難病指定」を存分に体験するために、私は「中国で入院し、東洋医学と西洋医学をミックスした治療を体験してみよう」と、中国での入院を模索して、友人たちの支えで、四川省の山奥の村野病院に、農村医療で生きてきた名医がいることがわかり、4ヶ月ほど入院しました。
中国人の友人たちが、「日本人が暮らすのは無理だろう」と心配したほどの、山奥の村の、“2000年このかたこうして生きてきました…”というような素朴な村人たちの暮らしは、心身ともに私を癒やす場所となりました。
言語の問題もあり、寂しさを慰めるため、私はハーモニカを持参して、夕方になると毎日病室で演奏をしていました。
ところがある日、私の演奏時間になると、病院の前に人々が集まるようになっていたことに気づき、ハーモニカが「自分だけの、たった一人の世界」ではなく、人々が聴いて下さる、楽器としてのハーモニカの価値に改めて目覚めたのです。
私は、退院して日本に帰ったら、本格的にハーモニカの練習を始めることを決意しました。

ストリートライブを始めてから

ストリートライブ
還暦を迎えた2005年1月、一人で公園でのストリートライブを始めてから、私の人生は、がらりと変わりました。
その年の8月には「第1回西川義夫ハーモニカリサイタル」を開催。
それまで、私がハーモニカを演奏することは、家族しか知らなかったため、古くからの友人達も大いに驚きました。
また、ヤマハの天神教室でのレッスンもこの年に始まりました。
私は一挙に、演奏活動と指導を行うこととなったのです。
翌年には台湾で開催されたアジア太平洋ハーモニカフェスティバルで2位に入賞。2年後の中国・杭州でのフェスティバルでは3位に入賞。
レッスン
アジア太平洋ハーモニカフェスティバルで2位に入賞

ハーモニカを学ぶ生徒さん達も次第に増え、様々な会場で教室を開くようになりました。
ハーモニカを通じた海外の友人達との交流も続き、これまでに、韓国・中国・ドイツ・ポーランド・アルゼンチン・ブラジルでのライブツアーも実施しています。
最近は、ハーモニカによる即興演奏や、ピアノ・バイオリン・ギターなどとの共演、中国や韓国の演奏者との共演などにも力を入れています。

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