私のハーモニカ歴⁻1

私は、私と同じの年代の人々がそうであったように、小学生の時にハーモニカの授業で、初めてハーモニカに接しました。小学校4年生の頃だったと思います。

当時は、学校の授業の一環として、街の映画館に映画を見に行っていました。今の子ども達のような多様な遊びがない時代でしたから、学校教育も様々な工夫がなされていたのだと思います。そうした「授業」の一環でみた映画が、私の人生を決定づけました。

それは、「ビルマの竪琴」です。

 現地の人々や日本人が大勢傷つき・亡くなった後に、日本人は(当時の)ビルマを引き上げます。その時、水島という一人の上等兵が、「自分は慰霊のためにビルマに残る」と言って、「埴生の宿」を演奏するのです。

私は愕然として、「埴生の宿を演奏するしかない!」と、思い定めました。

 授業とは関係なく、私は一人でハーモニカの練習を始めました。

当時、私は千葉市の端の方に位置する地域に住んでいました。今の千葉市とは全く違って、素朴な田舎町だったと思います。そんな千葉市で、学校の授業で購入したC(ハ長調)のハーモニカ以外に、一体どうやって手に入れたのか良くわかりませんが、半音違いのC♯を手にして、いつの間にか「二本吹き(二本のハーモニカを同時に使って演奏する)」で、知っている曲を片っ端から演奏していました。

 千葉市の当時住んでいた家には、門のそばに大きな檜の木があり、子ども達の絶好の遊び場でもありました。天気のよい日には、てっぺんから富士山が望めたような時代です。その檜の木の頂きで、いつのまにか、物悲しい曲を即興で演奏するようになっていました。私は、子ども心に抱えていた、ある鬱屈した何かを、ハーモニカの音色によって癒していたのかもしれません。

 ベースの入れ方も自分で工夫して、ハーモニカを左横にずらして和音を出す方法をとったりしていました。(後に詳しく解説しますが、ベース奏法の理屈としては、ある意味、この方法でも合っています。)

私が小学校5年生の時に買ったCとC♯の二本のハーモニカを、私は何十年も使い続けてきました。病気で入院する時にはいつもそのハーモニカを抱えて、屋上(昔は普通にお屋上に上ることができました)や病院の近く近くで演奏していましたし、何回もの引越しの中でも、その二本のハーモニカは、大切に、いつも持ち続けていたのです。

 NHK福岡が放映した地域ドラマ「見知らぬわが町」の中で演奏につかわれたハーモニカは、その50年前のハーモニカでした。私の宝物です。

 大人になってからは、ハーモニカを演奏する機会は格段に減っていました。

時々、思い出して演奏するという楽器でした。

 バイオリン・ピアノ・縦笛・ギターなど、様々な楽器との出会いを経て、私がもう一度ハーモニカを人生の定めとして集中して練習し、演奏活動をすることになったのは、難病指定になって、中国の山奥の病院で入院した時の、素朴な人々との出会いからでした。

私の指は両手も曲がらなくなり、演奏可能な楽器はハーモニカだけになっていたのです。

 日本の病院を退院したその日に、私は福岡市の中心街に行き、50年ぶりに、新しいハーモニカを購入しました。小学校の時以来となるCとC♯です。

やがて、中国の山奥の村の病院に入院した私は、毎日夕方になると病室でハーモニカを演奏していました。…とある日演奏する時間帯に病室の下にいる人々が多いことに気付きました。人々は、“それとなく集まって”“それとなく”聴いてくれていました。私はそういう村人たちの素朴な姿に、とてもとても感動したのです。

 ハーモニカは私にとって、楽器というよりも、私自身の何かを表現する“あるもの”でした。でも、その中国での経験以来、ハーモニカを改めて「楽器」として、私の中に位置づけることになったのです。

その村の病院をで、私は、「退院して日本に帰ったら、改めてハーモニカを徹底的に練習しよう」と決意しました。

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